出席者:佐藤美里菜(14)、三崎令雄(15)、三崎友衣奈(15)、寺尾佳恵(18 司会)
2007/05/03
カンボジアへ行って、今まで自分が当たり前だと思ってきたことがそうじゃなかったり、逆に「これは日本特有だろう」と考えていたことが同じだったりしたことがあった。ところで「当たり前」って何だろう? |
佳恵:今回カンボジアへ行って、今まで自分が当たり前だと思ってきたことがそうじゃなかったり、逆に「これは日本特有だろう」と考えていたことが同じだったりしたことがあると思います。そんなことから「当たり前って何?」を考えていきます。最初に「これは当たり前じゃない」と感じたことがあれば言ってください。
令雄:カンボジアでは、教育を受けられない子どもがいるということが「当たり前なんだな」と感じました。日本じゃ絶対にありえないことだし。
友衣奈:私は行く前からそういうのはわかっていたのですけど、学校へ行けなかったり、親が漁のためにボートを使っているために水上寺子屋へ行けなかったりする子どもたちがいるのを見て驚きました。
■教育を受けられないのは当たり前?
美里菜:一部の学校では、貧しい家庭の子どもが皆勤したら学校がお金をあげるという。そこまでしないと子どもが(児童労働のために)学校にこないという話は衝撃的でした。学校へ行くことは「当たり前じゃない」、ということが、この世界を見てわかりました。
佳恵:その学校に行けない理由というのはなんだった?
友衣奈:親の仕事を手伝うので時間がないとか、親が手伝ってくれといって学校へ行かせないとか。でも、必ずしもみんなが学校に行きたいとは思っていないし、学校に行かなくてもいいと思っている人がいると聞いて驚きました。日本ではとりあえずみんな学校には行くし、行きたくないという人はそんなに多くないと思います。
佳恵:どうして学校へ行きたくないのだと思う?
美里菜:今、家族に経済的負担を与えて自分が勉強しても、将来ちゃんとした職業につける保証もないから、それならば今働けばいいのかなと考えるかもしれないし。私たちは学校に行かなきゃいけないと洗脳されて行っているけど、カンボジアではそういうのがないから、「じゃあ、行かなくてもいのじゃないか」となるのかもしれません。
佳恵:たしかに、私たちには学校へ行くことが制度としてあるし、親からも「来年は学校へ行くのよ」と言われているから「学校はいくもの」と思っている。でも、何も知らなければ、「 7 歳になったから学校へ行こう」と考える人はいないと思う。カンボジアでは、大人も自分が教育を受けていないから、子どもを学校に行かせるという考えが浸透していないのじゃないかな。
令雄:僕たちには学校へ行かないという概念がないじゃないですか。だけどカンボジアでは学校へ行ことが当たり前になっていないから、教育への疑問が出てくるのではないかと思います。
■夜、寺子屋へ行くことが当たり前な訳
佳恵:他に授業の内容や学校で学んだことで、「私たちがやっていることは、当たり前じゃなかった」と思ったことがありますか? 私自身は学校というのは、書いたり読んだりの勉強をするイメージがあったのですけど、寺子屋では職業に直結するから、とレース編を教えていた。そういう技術を教えることも教育ということに驚いたし、それを学校でやるということがカンボジアでは当たり前としたら、自分の考えていた当たり前とは違うなと思いました。
美里菜:寺子屋ではまず文字から習うということ。私たちは小さい時にほとんどの人が文字を読めるようになっているけれど、カンボジアにはそれもできない大人がいる。
友衣奈:日本では細かい教科を学んでいても「これが将来何の役に立つのか」なんて友達と言っていたのですけど、職業教育みたいにちゃんとした目的があることなら、頑張ることができるのかなと思って、それがとても新鮮でした。
令雄:カンボジアでは小学生が夜の寺子屋にいく。日本にも夜学はあっても、それは高校生でしょ。それが小学生でも当たり前というのが驚きでした。
美里菜:日本の小学校の先生から言うと「お家にいなさい」という時間帯にカンボジアでは学校で勉強していて。日本では昼間の安全な時間帯に勉強しているのに、カンボジアでは違うのを見て、守られている中で勉強するのが当たり前じゃないということがわかりました。
佳恵:でも何で夜に学校があるかというと、昼に働いているからなのよね。私たちは「働かなくてもいいから勉強をしなさい」というある意味すごく贅沢なことをやらせてもらっているけれど、カンボジアの子どもたちは、働いている時間をとった残りの時間で勉強している。小学生たちが昼間働いているということを見て何か感じたことがありますか。
美里菜:カンボジアに行く前にそういうことが普通にあるってことを聞いていた。実際にトンレサップ湖でバナナやジュースを売りにきていた子どもたちを見て、彼女たちは勉強をさせてもらえない環境にあるのに、私たちは人からお金をもらって教育を受けさせてもらっている。
令雄:昼間働いている小学生には、自分と同じように教育を受けて欲しい。当たり前というのは国によって違うじゃないですか。でも「教育を受けられる」という当たり前のことの格差は無くした方がいいし、世界で共通する「学校へ行く」という当たり前はどの国でも必要だと思いました。
友衣奈:教育に対する価値がカンボジアでは低いということに気づきました。日本では教育は職業につくにも何をするにも必要で、「知識は宝だ」なんていわれていますけど、カンボジアでは親の仕事を手伝えるくらいの知識は必要だけれど、教育があまり重要ではないというのを知って驚きました。教育はどこの国でも重要なので、日本に限らずどこの国でも同じような価値を持っていて欲しいなと思いました。
美里菜:日本ユネスコ協会連盟の現地事務所でカンボジアの大学生が、大学の授業料は自分で稼いでいると話していました。私の知り合いにもできるだけ自分で稼いで大学へ行っている人もいて、日本では「それは偉い」と言われる行為だけれど、カンボジアではそれは当たり前というのが、日本では逆に当たり前じゃないのだと思いました。
佳恵:日本では大半の人が親に出してもらっているわよね。彼等が自分で稼いで勉強しに行くという考え方は、言われてみればある意味「当たり前」。でもそういう考え方をするのが「当たり前」と思う反面、そう考えてこなかった自分がいる。
美里菜:国が違うと「当たり前」も違うから。
■自分たちにとっての当たり前じゃないことだらけ?
佳恵:教育以外で「当たり前」じゃなかったのは、カンボジアではバイクを運転するのに免許が必要じゃないということ。カンボジアでは7、8歳の子が免許もとらないでバイクを運転している。
令雄:一台のバイクに4~5人乗っているのもよく見かけました。それが許されるのは、たぶん交通法がまだ整っていないからだと思うけれど驚きでした。
美里菜:観光地でも信号がめずらしい。でも事故を見なかったし。もしかしたら、それぞれがちゃんとコントロールできれば、実は信号なんていらないのかなと思いました。けっこうみんなお互いに道を譲りあっていて。
佳恵:夜、電灯があるのが普通じゃない。夜の寺子屋は灯りがあったけれど、その明るさは日本だったら、「眼が悪くなるからもっと灯りをつけなさい」と親にいわれるような薄暗さ。だから電気が普及しているとか、下水道が完備していることが当たり前じゃないのだなと思いました。
友衣奈:高床式の家に仏壇のようなものがあってびっくりしました。日本だけだと思っていたのに。
美里菜:仏壇の形は日本と似ているけれど金色がいっぱいで、カラフルで面白かった。
令雄:高僧が死んだら打ち上げ花火をあげるのも面白い。なんで死んだのに花火?
佳恵:花火っていうと日本ではお祭りって言うイメージ。
美里菜:選挙のポスターが木に貼ってあること。電柱も掲示板もないので、木に貼るしかないのだけれど。
■カンボジアで学んだこと
佳恵:「当たり前」っていうのは、国によっても、地域によっても違うし、もっと細かく言えば家によっても「うちの当たり前」は「お隣さんの当たり前」じゃないというのがあるから、これだけ国が違えば当たり前のことが違うというということを知ることができてよかった。日本や自分の生活や考え方が決して世の中の一般の考え方じゃないっていうのを、これだけ顕著に見て、感じることができたことはすごいプラスになったなと思います。
友衣奈:私もそういうことを知ることができたのがよかったです。地雷博物館のアキ・ラーさんが言っていた「私が生まれたときに、もう戦争が続いていて、こういう世界は世界中どこでも一緒だと思っていた」と言っていました。私も小学校まで「カンボジアはこういうもの」と思っていて、中学校になってから、だんだん現状を知るようになったのですが、それを実際に見られたことはすごく大きいと思いました。
令雄:たしかに日本では「日本の当たり前」にある意味合う部分もあるのですけど、「他の国の当たり前」を知ることで視野が拡がったし、別の視点で物事を考えられるようになったと思います。
美里菜:私もとても貴重な体験をさせてもらったと思います。日本で「当たり前」といわれることが、一歩外に出れば全然違うことだったり、その反対だったりすることもあるし、何が正しいかとか決め付けることができなくなるので、それなりに自分の意思をもって何かできるのではないかと思います。