「ちょうどの学び」とは何か?
記者:Nili Fukumoto (15歳)
兵庫県芦屋市が力を入れる「ちょうどの学び」。その中心に立つのが、2023年に26歳で市長に就任した髙島崚輔氏だ。アメリカ・ハーバード大学に留学した経歴を持ち、多くの注目を集める若手首長である髙島市長は、「教育」に特に強い思いを抱いているという。自身も多様な教育環境を経験してきた髙島市長に、目指す教育の姿について話を伺った。
なぜ若い世代に力を入れているのか
就任直後から小中学校の子どもたちとの対話を始めた髙島氏。最初の質問は、「なぜ若い世代との交流に力を入れているのか?」である。髙島市長は、そもそもなぜ市民と交流するのかという点から話し始めた。それは「市民が中心となるのは当たり前だから」だという。そのうえで、ニーズが多様化する現代において、「お互いのことを知る」ことがとても重要だからだと語った。
また、特に若い世代と交流したり、教育分野に注力したりしている理由については、「若い世代の声が他に比べて届きにくいから」と説明してくれた。18歳未満の人には選挙権がないため、選挙で自分の政治的意思を表す手段がない。しかしながら、市内の中学校などでは自分たちで校則に課題を感じ、変えようとしている生徒が多いという。そのような若い世代の声こそ政治に反映させていきたい、という髙島氏の思いがある。
「芦屋にいちばん長く住むのはもちろんいちばん若い世代で、だからこそ中長期的に行政が支えていく姿勢が大切です」(髙島市長)
「ちょうどの学び」
芦屋市では、「ちょうどの学び」を実現する環境づくりに取り組んでいる。「ちょうどの学び」とは、児童・生徒一人ひとりの個性や特性、理解度や興味関心などに合わせた学びのことである。ひとりひとりの学びに合わせる、というとAIドリルのような習熟度・理解度を想像するかもしれない。しかし、髙島市長はそれだけではなく、個性や特性も重要だというのだ。
例えば、ひとりで学習する方がいいと感じる人もいれば、友達と教え合う方がはかどるという人もいる。見て覚えやすい人や、聞いて覚えやすい人、書いて覚えやすい人もいる。そのように、「自分に合った学習法を見つける」という意味も義務教育には含まれている、というのだ。実際、芦屋市内の小学校で、自由に学び方を選べる時間を取ってみたという。机を動かして壁に向かって学習した児童や、友だちと話しながら学んだ児童もいたそうだ。
他にも、自分のやりたいことも大事だろう。自分のやりたいことと目の前の学習との関連性を見出せると、「もっと学びたい!」というモチベーションが引き出せるはずだ。つまり、自分の興味と学びをどう繋げるか、というのも「ちょうどの学び」といえるだろう。

どんな取り組みをしているか
髙島市長は、今取り組んでいることや課題について語った。
課題として挙げたのは、行政がいくら素晴らしい教育案を練っても、先生次第でこどもに届く教育は変わるという点だ。特に小学校では、児童は先生を見て学ぶ。だからこそ、芦屋市ではまず先生を大事にしているそうだ。先生がいかに主体的に教育に取り組めるか、どうモチベーションを上げるかを工夫しているのだ。例えば、先生の「やりたいこと」を応援するために、市外も含めた他校への視察を金銭面でも援助している。先生が主体性を持って取り組めば、児童はその主体性に感化されておのずと主体性をもつ。
次に、「今の日本に足りないことは何か?」と質問すると、「余白が足りないことだ」と即答された。「余白」は余裕とも言い換えられるだろう。芦屋市では、小学生の中学受験率が50%程度ととても高い。取材に行った記者2人ともが中学受験経験者だったこともあり、とても身近な話だったこともあり盛り上がった。中学受験を例に挙げると、小学生なのにもかかわらず、多くの児童は追い立てられて勉強し、主体性もあまり持たないまま、塾や参考書に囲まれて日々偏差値や点数に追われている。偏差値や点数はもちろん指標にはなるが、長期的な目で見ると主体性を持つことはとても重要だ。そのためには、「まずこどもに任せてみる」というのが大事で、そのためには先生を含めた周りの大人がこどもに任せるだけの余裕を持つことが必要だと市長は語る。
海外と比べて見る日本の教育
髙島市長はアメリカの大学に進学した経験を持つ。その経験からみて、海外、特にアメリカと日本との教育の違い、そしてそこから見る日本の教育の良さについて伺った。
まず、アメリカと日本では授業の受け止め方が違うようだ。髙島市長が受けていた大学の授業では、「この授業がなぜ面白いのか」「どう役立つのか」というのが授業の最初にあったそうだ。その導入があったからこそ、学んでいる実感や学んだことが生きていると感じる経験ができたと語る。これは、前述の「ちょうどの学び」と関連しているのだろう。
他にも、アメリカの授業では現場とのつながりを感じる機会が多かったようだ。生成AIの利用が当たり前になった現代、AIには答えることができない、「あなたはどう感じたのか?」と問われることがよくあったという。つまり、「学びの主役は自分なのだ」という主体的な学びへの姿勢を問われているのであり、まさに「ちょうどの学び」が実践されていたといえるだろう。
しかし、だからといってアメリカの教育が必ずしもいいといえるわけではないという。アメリカでは教育の質が上から下まで幅広くあり、教育の差がとても大きいというのだ。髙島市長は「反対に、日本では、学習指導要領など教育の質をある程度担保してくれる仕組みがあるのが素敵だ」と語った。

急速なデジタル社会と教育
現代、急速にデジタル化が進み、GIGAスクール構想と呼ばれる政策や、ChatGPTに代表されるAIの台頭など、教育にもデジタル化の波が押し寄せている。
髙島市長は生成AIについてどう考えているのだろうか。意外にも「使ってみた方がいい」との返答があった。市長自身も、生成AIを使って卒業式のスピーチを作成してみたことがあるという。その際、自ら内容を考えたものとAIが生成したものを比較してみたところ、自分で考えたもののほうが良いと感じたそうだ。それをAIに伝えると、「自分に自信を持てるのが人間らしいですね」と返され、AIもメタ認知ができるのだと驚いたと話す。このように、AIに一度触れてみなければわからないことも多くあるからこそ、「一度は触れてみた方がいい」と語った。
また、生徒・児童一人ひとりにタブレットを配布したことで、何が変わったのかについても伺った。これにより、「ちょうどの学び」として、一人ひとりのペースに合った学びができるようになったことや、動画で理科の実験やインタビュー映像を見ることができるなど、学びの幅が広がったと述べた。しかし、すべてがAIやパソコンで解決できるわけではない。こうしたツールでさまざまなことができるようになった今だからこそ、「先生も一緒に学ぶ」という姿勢で、生徒との対話をより一層深めることが重要だといえるだろう。
取材後記: 今まで教育に関する取材をしたことがなく、教育といえば「今自分が受けているもの」という軽い認識しかなかったので驚くことが多かったです。髙島市長は政治家の中ではとても私たち中高生と年が近く、教育に対する思いに共感する点もとても多かったです。