坂本 光央(11)
あれから3年半がたったが、皆さんは3月11日のことをどれだけ覚えているだろうか。マグニチュード9.0、最大震度7の地震は東日本全体を襲い「東日本大震災」と名付けられた。また、この地震は大きな津波を引き起こし、三陸沿岸の市や町を流し去った。そんな多大な被害を受けた被災地の現在の状況と、そこに住んでいるこどもたちからこの被災地がどのように見えるのかを知るため、8月16日に宮城県石巻市と女川町を回り、石巻で活動しているキッズ・メディア・ステーションのこども記者に取材した。
最初に、石巻駅前から観光タクシーで石巻の日和山公園、石巻港、湊小学校、そして女川町地域医療センター(旧女川町立病院)を訪ねた。日和山公園は、石巻市街を一望できる高台で、ところどころに震災前の写真が掲示してあり、震災前と今でどこが変わってしまったのかが一目で分かるようになっている。その写真と今の様子を比べてみると、明らかに建物が減り、南浜地区や門脇地区にはほとんど建物がなく、旧北上川の中洲も、面積が小さくなっている。津波で流されてしまったのである。
石巻港には、津波で半壊した建物が未だに残っていて、とても痛々しかった。
湊小学校は、震災により2013年に閉校した湊第二小学校と統合していた。湊小学校の前には「湊第二小学校 沿革」「湊第二小学校閉校記念碑」などの石碑が建っていた。
女川町地域医療センターは海抜18メートルの高台にあった。それでも津波が押し寄せて、一階が2メートルほど浸水したそうだ。また、通る道の途中には、あちこちに「津波到達高」を示す看板があり、また狭い仮設住宅などがあって、実際に行ってみないと分からないことが多かった。
そして、一般社団法人キッズ・メディア・ステーションの記者たちに震災について話を聞いた。キッズ・メディア・ステーションは、「石巻日日こども新聞」を作っている団体である。
まず、地震が起きた時の気持ちを尋ねると、八重樫蓮君(石巻中学校1年)は、「その時(小学4年生)は学校にいたので、家族のことが心配でした」と語った。
石巻の町がこれからどのような町になって欲しいかについて聞くと、松林拓希君(蛇田中学校1年)は「震災後は津波の影響で、こどもたちの遊び場が屋内だけだったので、屋外に遊び場をたくさん作ってほしいです」。木村ひな子さん(門脇中学3年)は「震災後は商店街も閉まってあまり人がいないので、店が開いてもっと明るくなってほしいと思います」。八重樫蓮君は「郊外に店が集中して、みんなそっちに行ってしまい、中心市街地を賑やかにしてほしい」など、津波によって大きく変わった町の環境に対する希望が多かった。
また、今の石巻はみんなの理想の街に近づいているかどうかについて、酒井理子さん(門脇小学校6年)は、「近づいているとは思うけど、まだまだ理想の街とは思わない」。阿部文香さん(蛇田小学校6年)は「門脇小学校があった南浜地区は津波でほとんど流されてしまって今は雑草だらけで夜になると灯りがなくて暗いので、そこを明るくしてほしいです」と語り、まだまだ震災前の状態にさえ戻っていない様子がうかがえた。
被災地に対して、全国の人たちにして欲しいことは、「石巻のことをもっと目立たせてほしいし『石巻日日こども新聞』(http://kodomokisha.net/index.html)を読んで欲しい」(酒井さん)と、記者ならではの意見もあったが、「石巻に来て一緒に交流して欲しいです」(木村さん)。「今よりもっと観光客が増えてほしいし、震災のことをもっと色々な人に知ってもらいたい」(阿部さん)など、石巻を訪れてほしいという希望が多かった。
最後に、震災を通して全国の人に伝えたいことを聞いてみると、八重樫君は「石巻の人たちが(寝る時には懐中電灯を枕元に置くなど)備えているのは震災があったからなので、ないところでは備えをしてほしいです」。木村ひな子さんは「地震はいつ起きるかわからないし、津波がくるかもしれないから、備えはした方がいいと思います」。酒井さんは「地震が起きたら、どういうことをしなければならないかを考えて欲しい」など、震災を経験した人ならではの「備え」を話してくれた。
今回、石巻を訪ねて、ニュースやテレビのドキュメンタリーなどではわからない、被災地の空気を感じ、現地の人々に直接聞かないと分からないことはたくさんあると改めて感じた。 一人でも多くの人が現地に出向いて大地震や津波のことを知ることは、これから起きると予想されている首都圏直下型や南海トラフ地震などの被害を少しでも減らせるのではないかと思う。