私達とキャラ的人間関係
宮澤結(15)
天然キャラ、お姉キャラ、いじられキャラ・・・。あなたの周りにはどのような“キャラ”の友達がいるだろうか。
最近、キャラを演じて人間関係を構成する、「キャラ的人間関係」が多いと言う。そもそも「キャラ的人間関係」とは何だろうか。この場合、集団の中で他人から見た断片的な性格のことだ。
例えば、少し抜けている子が周りの友達に「少し抜けてて天然だね」といわれ、それが 波及してその子は「天然キャラ」と定義づけられる。また、いつも冷静で皆から頼られて いる子が周りの子に「お姉キャラ」と定義づけられる、といった感じだ。しかし、天然キ ャラの子もしっかり考えている事だってあるだろうし、お姉キャラの子だって悩んだり、弱くなったりすることもある。そのような時に自分の多面性を見せることの出来る友達がいればいいのだが、キャラで付き合うことで、なかなか自分の色んな面を見せられずに苦しんでいる人がいる。
では、なぜこのような人間関係が生じたのであろうか。
キャラ的人間関係に詳しい、皇學館大學文学部コミュニケーション学科の森真一教授 に伺ったところ、「このような関係ができるのは、確実に楽しむことを求めている時代背景があるからだ」と言う。
例えば、集団で話していて話題が無くなった時に、天然キャラの子に話を振って、何か とぼけたことを言えばその集団の皆が“確実に”笑えるし、いじられキャラの子をいじって、いじられキャラの子が面白い反応をすることで、一応会話は成立する。「この“確実性”というのは社会全体で求められている」と森教授は続ける。
社会が確実性を求めている事が良く表れている例として、店のマニュアルやテレビ番組が挙げられる。店のマニュアルは顧客を“確実に”親切に接客するためにあるものだし、テレビ番組は視聴者を“確実に”楽しませるものである。これらは仕事として行っていることなので、確実性を求めるのは当たり前のことだ。しかしながら、人間関係とは本来そんな一本調子なものではないにも関わらず、このような確実性が求められてきたのだ。
また森教授によると、キャラ的人間関係には、次のような問題点が挙げられる。
一つは先にも書いた通り、キャラを定義づけられることで自分の一面しか出せないということである。人というのは誰だって自分の多面性を認めてもらいたいものだが、このキャラ的人間関係では自分の色々な面を見てもらえない。
二つ目は、自分のプライベートに踏み込まれずに済むということである。皆、集団の中では一面しか出さないから、他人の悩みや相談を聞かなくて済む。これは、一見利点のように見えるが、言い換えれば自分も悩みや相談事が打ち明けられないという可能性が高い。すなわち、キャラ的人間関係には信頼関係がないということになる。
このような問題点があることから、ブログに自分の本音を書くことで発散したり、インターネットから自分と同じ考えの人と悩みを共有しあう人も多いらしい。
クラスの中での自分、部活の中での自分、ブログの中での自分・・・それぞれの集団で自分の違った一面を出すことで、総合的に自分の多面を出しているのだと思う。沢山の集団に所属していることで満足を得ている人もいるのではないだろうか。
もちろん、人間関係において「キャラを演じている」という意識がない人もいると思う。私自身もキャラを演じている感覚はなく、ごく自然体で過ごしているつもりだ。それでも、クラス、部活、習い事と集団がかわると「キャラが違う」と友達に言われたことがある。
私には、相談できる、ちゃんと向き合える友達がいて困ったことはないので、キャラ的人間関係が必ずしも“良い”とか“悪い”とは言えない。ただ、誰にも本当の自分を出せずに悩んでいる人、キャラ的人間関係のために困っている人がいることを、私達は忘れてはいけないと思う。
あなたは何キャラ?
佐藤美里菜(16)
あなたは「キャラ的人間関係」という言葉を知っているだろうか。
その言葉を知らなくても「ボケキャラ」や「いじられキャラ」、「姫キャラ」という言葉は聞いたことがあるだろう。これらは、特に現代の学生の間では当たり前に使われている言葉である。
2008年6月に行った大学生(18歳~21歳)に対してのアンケート調査では「和みキャラ」「かわいいキャラ」「おやじキャラ」等、さまざまなキャラが存在することが分かった。
そもそも、キャラ的人間関係、つまりキャラで成立する人間関係とはどのように生じたのか。2008年6月15日に皇學館大學の森真一教授に取材を行った。森氏曰く現代社会の傾向として「限られた時間を効率よく確実に楽しむ」ということが求められおり、キャラが設定されることによって少ない時間で楽しむことができると言う。また、そのキャラとして人と接することで素の自分は隠し、人と深く付き合うことをしなくてすむのだ。自分の自由を守ることもでき、傷つけ合うことも少ない。しかし、その反面、信頼関係は希薄化し、キャラを演じない人はいわゆる“KY(空気の読めない人)”となってしまう。そしてひどい場合はいじめなどにも発展すると森教授は言う。
この、「限られた時間を確実に楽しむ」というのはテレビの中でも見られる。それはボケ役とツッコミ役の芸人が人を笑わせる、ということである。しかし、これは仕事を効率よくするための役割であり、楽しむための役割=キャラとは微妙に違うようだ。また、芸人の場合はそのキャラを演じているが、ここで言う“キャラ”は演じているわけではないと森教授は言う。誰かがその人の性格などからその人のキャラが設定される。アンケートでも「無意識に設定されていた」という回答が多数あった。例えば、天然ボケな人は「天然キャラ」、クールな人は「クールキャラ」といった感じだ。しかし、その与えられたキャラに満足しないと辛くなる。森教授曰く「いじられキャラ」にならないためには自尊心(=プライド)を持つことだそうだ。
私は、楽しむことも好きだが信頼できない人間関係は寂しいと思う。森教授は「人間は多面的である」と言うが、私もそう思う。さまざまな面がある中で、互いに価値のある人間関係が築けたなら、それが私の理想である。
忙しい現代から生まれた“キャラ的”人間関係
貝原萌奈実(18)
忙しい現代の若者の人間関係は、『キャラ』で成り立つ―――――。
仲良しグループでも部活でも、そのすべての構成員に「いじられキャラ(仲間からいじられる対象)」「クールキャラ(常に冷静に振舞う人)」などといった役割が自然と割り振られていて、構成員はその「キャラ」に徹しなくてはいけないことが多い。だが、「ボケキャラ」の人だって落ち込むことはあるし、「天然キャラ」の人だって真面目な話をしたい時もあるだろう。
皇學館大學の森真一教授は、「この『キャラ的』な人間関係なら、いつも確実に楽しんでいられるし、相手に深く関わらないから、互いに自由な時間を守れるし傷つかないで済む」と言う。現代人はとにかく忙しい。小学生でさえ塾に行く時代である。友達と一緒にいる時間も限られているから、短い時間で確実に効率的に楽しみたいと考えるようになる。重い話をするよりも、その場だけでも盛り上がった方が都合良い――――そんな時に役立つのが「キャラ的人間関係」だということなのだ。
このような人間関係が発生した原因の1つとして、「現代では昔と違って友達を選択することが可能であるから」と森教授は挙げていた。昔は、クラスなどといった決められた場所で出会った人間と友達になるほかなかったため、その場を盛り上げるために一緒にいるのも、面と向かっての付き合いをするのも、同じ友達であった。だが、現代ではインターネットの普及から、普通に生活していては出会えないような人間とも気軽にコミュニケーションをとることが可能となった。必要な時だけ連絡を取ることができるため、「ただ盛り上がりたいのか」「真剣に悩みを聞いてほしいのか」などと、求める内容に応じて相手を選ぶことができる。そうなると、無作為に決められた学校のクラスでの友達とは、とにかく学校生活を楽しく送るためにその場で盛り上がれれば良いと考えるようになる。そこで作り出された「キャラ的」な人間関係の中で、計算してキャラを演じながら、そのグループで自分が落ち着けるポジションを探っているのだ。面と向かっての人間関係はあきらめ、その代わりにインターネットの「ブログ」に本音を書く。「このような時代には、人工的な人間関係しかできない」―――――森教授はそう指摘していた。
現代のキャラ的人間関係に類似したものとして、昔の若者の人間関係にもドラえもんの世界に代表されるように、「番長」「スポーツができる」「先生にかわいがられる」などの役割がそれぞれにあった。だが、「そのような役割が本質に近いものなのに対し、キャラは人工的なものだという点が大きく違う」と森教授は言う。
実際に「キャラ的人間関係」の中で生きる若者は、「キャラを演じている意識はない。自分の性格から自然と表れたものを他人が認識することでキャラが作られ、自分も意識するようになるだけ」と考えていることが、我々が実施したアンケートにおいてわかった。しかし、あくまでもこのキャラは、同じグループに所属する人間が、その場だけのポジションを与えたものにすぎない。「クラスから部活など、場所が変わればキャラも変わる」という人も多い。このことから、キャラはその人の本質ではなく、その場に応じて人工的に作られるものであることがわかるだろう。「いじられキャラ=いじめられっこ」というわけではないのである。ただし、「いじられキャラになってしまうと、自尊心を捨てなくてはいけない。最初は面白くても、だんだん辛くなり、結果的にいじめと同じ状況になってしまうことも多いのは問題だ」とも森教授は指摘していた。
今、社会全体が確実性を求めている。何においても、人々は簡単に予定調和に至るようなやり方を望んでいるのだ。「お店にもマニュアルがあるし、職人が少ないのもその表れ」と森教授も述べていたが、たしかにその通りである。人々は確実に楽しめる方へとどんどん流れていくから、現代はすべてにおいて消費する社会なのだ。大ブレイクしてもすぐに消えてしまう芸人が多いが、その芸人本人でさえ、「1年でもブレイクすればそれでよし」と割り切っているというのだから驚きである。
「キャラ的人間関係で構築された仲良しグループでも、その中に心を開ける友達がいれば問題はない」――――多くの若者がそう考えている。色々問題は多いかもしれないが、「キャラ的人間関係」は忙しい現代人にあった人間関係なのだから、長所を生かしてこのままやっていくのが最も今の時代にふさわしいのかもしれない。