誰でも入れる学校フォルケホイスコーレ

記者:内田萌夏 Moeka Uchida(19)

北海道東川町という人口8千人の小さな町に、株式会社Compathが運営する日本に一つしかない新しいカタチの学校「Compath(コンパス)」がある。デンマーク発祥の「人生の学校」と呼ばれる「フォルケホイスコーレ(Folkehøjskole)」からヒントを得て作られた学校だ。年齢や属性が異なる人同士がともに暮らしながら学ぶ。そんな不思議な学校で19歳の私(記者)が感じたこと、学んだこと、気づいたことを記事にした。

大人も子供も大して変わらないSchool for Life Compathについて他人と話すということ最後の授業テーマ「表現」私の人生で一番濃い1週間取材後記と記者雑感

大人も子供も大して変わらない

 こんなに大人の涙を見たのは初めてだった。嬉し涙も、悲し涙も、悔し涙も、怒りの涙も、誰かを思いやる涙も。いろんな大人のいろんな涙をみた。Compathにくる前も、大人だって泣くことがあるのをわかっているつもりだった。でも心のどこかで、大人になれば、傷つきにくくなるし、涙も出にくくなるものだと思っていたんだと思う。だから、子供みたいに泣きじゃくる大人をたくさん見て、正直驚いた。

 「大好きだった旦那を亡くした。でもまだ一度も泣けていない」と初日に語ったAさんが、この8日間誰よりも泣いていた。私の目に映るその人は、悲しみや悔しさを隠さずに表現する人だった。「4人の子供の母親だから、沖縄に帰ったらまた元気で明るいマミーに戻ります」と最終日に語った彼女は今どんな毎日を送っているのだろう。

 ついこの間仕事を辞めて、今、未来に対する期待と同時に不安があること。だから、みんなと同じようにワイワイ話すことが辛くて、申し訳なさを感じながらもひとり、部屋に戻っていたこと。そんなことを帰る直前に、泣きながら話してくれたのはBさんだ。いつも笑顔だった彼女が見せた柔らかくて脆い一面に、人間っぽさを感じた。晴れ晴れとした顔でプログラムを終了、その後すぐに次の旅を始めた彼女から、この間久しぶりに「Ed Sheeranのライブ当たったよ!」と連絡が来た。1月末に東京で再会できるのが今からとても楽しみだ。

 「みんな生きるのが初めてだから、生きるのがとても下手くそだった」と最終日のリフレクションで涙ながらに日記の一部を読んでくれたCさん。「どうせ死ぬのに何を頑張るのか?」そんな言葉で始まった彼女の日記は、「生きるのって悪くないな」という言葉で終わっていた。5分間で彼女の心の中の葛藤を少し見た気がした。普段嫌な顔を少しも見せない彼女が語った苛立ちややるせなさは多くの人の心を動かす不思議な力を持っていた。

 普段感情を隠して生きている大人から溢れ出た感情は、どれも面白かった。そして素敵だった。

 「大人になる」という言葉はよく聞くけれど、結局はただ年を重ねているだけなのかもしれない。経験を重ねて、隠すのが上手くなるだけで、悲しさだったり、苦しさだったり、そういう感情を味わわなくなるわけじゃない。大人だって泣くし、大人だって傷つく。「大人も子供も大して変わらない」。そんなことを感じ続けた8日間だった。

School for Life Compathについて

 フォルケホイスコーレとは、デンマーク発祥の少し変わった学校だ。特に決まった指導要領やルール等はないが、自由であること、全寮制であること、民主的な学びをすることの三つが大切にされている。また、成績や試験が一切なく、性別年齢など属性にかかわらず生活をともにしながら学ぶ。

 そんなフォルケホイスコーレを実際に体験し、日本に持ち帰ってきたのがSchool for Life Compathの創立者である安井早紀さんと遠又香さんだ。CompathにはWorkation course(7泊8日)、Middle course(4週間)、Long Course(10週間)の3つのコースがあり、それぞれの生活スタイルに合わせたコースを選択することができる。今回私が参加したのは、2023年度の10月の7泊8日Workation courseだ。

2023年度の10月の7泊8日Workation course

 基本的に全員が参加するような授業の他に自分で選択できる授業がある。私は今回3つある選択授業の中から、「新月の森を歩く」というコースを選んだ。この授業は、普段感覚全体の内、8割程度頼りにしている視覚が必然的に奪われる真夜中の森を歩くというアクティビティがメインだった。実際に旭岳で山岳ガイドをしている、東川町の地元の方がこの授業の担当をしていて、Compathと東川町の繋がりも感じられる授業だった。

他人と話すということ

 「私、明日の授業は参加せずに帰ろうと思っています」。そんな爆弾発言をコース6日目の夜にみんなの前でした人がDさんだ。7日目の授業がこのコースのメインだというのに、それを受けずに帰ると言い出した彼女は、このコースで私が一番仲良くなった人だった。Compathでインターンをしながら今回のコースに参加していた彼女は、いつも自分の意見をはきはき言う人で、よく他の参加者から「仕事できそう」と言われていた。そんな彼女は、インターン生としての目的である「大学生の参加者を増やす」ためには、何が足りなくてどこを変更すべきなのかをプログラム初日からずっと考えていた。実際私と彼女の会話の大半は「今の内省寄りのプログラムを、いかにして、外の世界に意識が向いている学生の興味を引くものにするか」だった。プログラムを「もっとこうしたらいいんじゃないか」とCompathの運営側にいるゆっけに提案する彼女の姿を何度もみた。その度に、「フォルケは特定の層のために開かれてるわけじゃないよ。なぜ外向きの人を集めたがるの?」と返答されていた。

 私はDさんと性格が似ている部分が多かったし、運営側に自ら色々な提案をしては、彼らから同意を得られない彼女ををずっと近くでみていたので、彼女の「帰ります」という言葉を聞いた時、「ああ、きっと傷ついたんだろうな」と思った。が、他の参加者の多くは「彼女にはこの場所があっていなかったんだろうね。プログラムの内容やこの場の雰囲気が優しすぎたのかな。」そんな感想を持って部屋に帰って行った。

 Dさんが涙を見せたのは、ほとんどの参加者が自分の部屋に戻り、彼女、ゆっけ、私、絵本画家のほっしーの4人だけになってからだった。

 見た目、声のトーン、話し方は完璧。それに加えて、自分の意見が言えて、効率的に仕事ができる。そんなふうだから彼女は小さい頃から、「強い」というイメージを抱かれることが多かったと言う。実は傷つきやすく、繊細なのに、真逆なイメージから自分を守るために、適当な理由をつけてはその場を離れるということで、自己防衛能力を身につけてきたみたいだった。

 ゆっけに「内省に意識が向いている人をなんでそんなに遠ざけようとするの?」と言われた時、Dさん自身が内省型の人を見下してると思われていると感じ、それがしんどかったと言った。Dさんはインターン生としての役目を全うしようとしてるだけなのに、他の参加者だけでなく、運営側のゆっけにも誤解されている気がしたそうだ。

 泣きながら本当に思っていたことを話してくれた彼女に、言われるまで気づかなかったことをゆっけとほっしーは素直に謝った。こんなに素直に謝る大人がいるのか、となんだか少し面白かった。

 それからゆっけは、「自分は相手の一つの発言だけで人を判断しないようにしている。だから自分も一つの発言で判断されることもないだろうと思っていた」と言った。日頃から状況や年齢も様々な人と対話する仕事をしているからこそ、先入観を持たずに話すようにしている。そんな彼だからこそ、Dさんが自分のさりげない一言に傷つくかもしれないと想像しなかったのかもしれない

 自分の話し方で相手に伝わるだろう、また相手も同じ対話の仕方をするだろう、と思いながら対話してしまっていたのだ。それが、顕著に現れた夜だった。

 他人と対話することは、どれほど時間がかかり、どれぐらい補足説明や相手の言葉への置き換えが必要なのか。深夜3時までぶっ続けで話し合って、やっとわかった。

最後の授業テーマ「表現」

 コース最後の授業のテーマは「表現」だった。この授業を担当した講師は「方法はなんでもいい。演じてもいいし、歌ってもいいし、絵や詩を創ってみてもいい。自分の中にあるグチャグチャした感情を書き出してみて、最終的にそれを発表しなくてもいい。表現しないことも表現だから」と言った。なんでも言語化することが求められがちな現代で生きているからか、「表現してください」と言われると「何か形にしなきゃ」と思ってしまう人が多かった。なんの成果も出す必要のない環境下で、ただ表現をする経験など幼稚園以来全く経験していないので、「なんでもいい」ことがむしろ大人の頭を悩ましていた。それでも与えられた1時間でみんないろんなものを創った。

 4歳の息子と一緒に参加していたある女性のEさんは、拾ってきた大きな葉っぱで顔を隠しながら詩を読んで、表現をした。「遠いところまでよくきたね」という彼女の詩は、一見他の参加者へ向けたもののようでありながら、彼女自身に向けたものだった。最愛の父を亡くし、仕事をやめ、そんな中で子育てをしてきた彼女にとって、このプログラムに息子とともに飛び込んだことがどれだけ勇気を要したのか。それが痛いほど伝わってくる表現だった。

 「この表現の授業を受けずに帰ろうと思っている」と6日目の夜に語ったDさんも表現をした。その場にあったいろんなものを輪の真ん中に乱雑に放り投げ、蹴ってバラバラにした後、一つ一つ積み上げた。全ての動作を終えた後、「世の中ってこんなもんだよなって、それを表現してみました」と説明した。いつもしっかりしている彼女が、表現をしながら流す涙に、驚き、もらい泣きする参加者はとても多かった。強さと繊細さが入り混じった、彼女そのものみたいな表現だった。

 「表現をしない」という表現をした人もいた。Fさんはプログラム中、誰よりも周りを気遣いながら生活していた。「弟が萌ちゃん(記者)と同い年なんだ」と語る彼は、8日間お兄ちゃんのような存在だった。自分を表現することが苦手と語っていた彼は、「やっぱり何が伝えたいのかわからなくなってしまったから」と言って最後の発表はしなかった。でも、その言葉だけでずっと自分と葛藤していた彼の8日間は、その場にいた全員に一瞬で伝わった。表現をしない表現と言うものがわかった気がした。

私の人生で一番濃い1週間

 せっかく北海道まで行くんだからプログラムが終わって2日ぐらいは、1人で観光でもしようと思っていたが、結局どこにも行かなかった。最終日の翌日は14時まで爆睡してしまい、色々調べて計画していた私の北海道一人旅は、全く実行されることなく終了した。(正直、深夜に1人でジンギスカンを食べに行ったし、市場の美味しい海鮮丼も食べたので十分満足はしている。)少しでも時間があればすぐどこかに行こうとする私が、ホテルでゆっくりすることを選ぶぐらいに疲れていた。大学に入ってから、部活、授業、遊びと毎日忙しくしていたから、それなりの充実感を感じていた。1週間って短いなと思っていた。でも、この8日間は馬鹿みたいに長かった。たくさん考えてたくさん心を動かしたからなんだと思う。自分と違う人と対話し、その人を理解することにものすごい体力を使っていたからなんだと思う。

大人も子供も大して変わらないSchool for Life Compathについて他人と話すということ最後の授業テーマ「表現」私の人生で一番濃い1週間


取材後記: 東京に戻ってきた今、やっぱり1週間って短いなと少し感じてしまっている。また、しばらくしたら、Compathに戻って、真の充実感を取り戻したい。Compathは誰にでも開かれた一度立ち止まって、リセットするための場所なのかもしれない。

記者雑感: なぜだか、昔から北欧に興味がある。街並みも雰囲気もなんか好きだし、北欧の料理は好きじゃないけど、北欧の家具もなんか好き。なんか惹かれるその国々は、どうやら幸福度が高いらしい。気になったら満足するまで知りたくなってしまう性格だから、興味の赴くままに、飽きるまで突き詰めてみることにした。最近のマイブームは、さつまいもをいろんな形に料理して食べること。でも結局、普通にレンジでチンするのが美味しい。どうせならいつかお芋を掘るところからやってみたいな、なんて微かに思ってる。