NPO法人 小児がん・まごころ機構


小児がん研究・中川原章医師に聞く

記者:Yua Sato(17歳)

前編では、小児がんを取り巻く世界の格差や、中川原先生が研究を志した原点について伺った。後編では、「人脈」の重要性や、最新治療の展望、そして先生が人生の最終章で成し遂げたいと願う「研究の集大成」について聞いた。

記者:小児がんシンポジウムでは、日本のみならず海外の先生方も登壇されていました。他の研究者の方々と関わる機会は、とても多いのでしょうか。

中川原先生:世界で何か大きなことをやろうと思ったら、やはり人脈が非常に大事です。研究者同士の人脈というのは本当に重要です。素晴らしい仕事をしている人には、独特のオーラがあります。そういう人たちと直接会って話をしたり、一緒に仕事をしたりすると、自分自身も変わっていきます。そのなかで、「今自分たちは何をすべきか」「どんな課題があり、それをどう解決していくか」が見えてきます。

二回目の留学のとき、フィラデルフィアの小児病院(Children’s Hospital of Philadelphia)に行ったのですが、そこは小児がん研究のメッカの一つで、素晴らしいリーダーたちが何人もいました。そこには世界各地から多くの人が勉強に来ており、その人たちがそれぞれの国に帰ってからも、お互いにコミュニケーションを続けています。

帰国後は、そこで築いた人間関係をもとに、アジアでさまざまな活動を行いました。国際小児がん学会のアジア大陸の会長に選ばれたのもそれがきっかけです。

ですから、できれば若いときに、世界のグレイトな人々に会ってほしいと思います。その次に今度は自分が主体的に世界に出て、世界の人々のために頑張る、という生き方をぜひしてもらえたらと思います。

記者:先生の活動の原動力は何でしょうか。

中川原先生:やはり原体験というのは、とても大事です。実弟は、最後はがんで亡くなりました。そして父親も、若くして胃がんで亡くなった。そのときに抱いた「敵討ちをしたい」という気持ちは、今もずっと続いています。ただし、それだけではありません。

小児がんを自分のテーマとして選び、その中でも「神経芽腫」というがんに出会いました。赤ちゃんのときにできると自然に治ることがある一方で、1歳を過ぎて発症すると非常に悪性で助からないことが多い。「なぜこんなことが起こるのか」という謎を、自分なりにずっと追いかけてきました。

「なぜがんができるのか」「なぜ自然に治るのか」「どうすれば治せるのか」。そういうことを考え続けていると、これを考えたり取り組んだりすること自体が楽しくなっている。そこから元気が湧いてくる、という感覚があります。

スポーツ選手も「楽しみながらプレーしたい」とよく言いますよね。大谷翔平さんも、いつも楽しそうにプレーしていますが、自信と実力があって、結果が出ているからこそ、ああいう表情になるのだと思います。

情熱を持って前に進んでいると、「楽しい」という感覚が必ず出てきます。その楽しさが原動力になって、続けていくことができる。私はそう感じています。

NPO法人 小児がん・まごころ機構
中川原先生が理事長を務める
NPO法人 小児がん・まごころ機構
https://mocc4u.org

記者:小児がんについては、社会に広く知ってもらうことが大きな課題だと思っています。年代の違う一般の人々が、それぞれの立場でできることはどのようなことがありますか。

中川原先生:これはなかなか難しい質問ですね。

やっぱり皆さん、それぞれ自分の人生を歩んでいきます。仕事にしても、目標にしても、一人ひとり違う目標を持って、それぞれの仕事をしていくことになります。ですから、その多くは小児がんとは直接つながらない、あるいは関係がないという人が大部分だと思います。

その中で、小児がんに対して強い思いを持ち、「小児がんの子どもたちを何とかしよう」「ご家族の気持ちを支えたい」という思いで活動している人たちがいます。ただ、そうした思いを持って実際に活動できる人は、本当にごく一部です。

その一部の人たちがこうした活動を続けていくには、すごくお金も要りますし、労力も要るし、情熱も要る。とても大変なことです。だからこそ、社会全体からの支えが必要なんです。物心両面で、社会が私たちの活動を支えてくれないと、活動は持続できません。

そういう意味で、できるだけ多くの一般の方々に支えてもらいたいと思っていますが、さきほど言ったように、皆さんそれぞれの道がありますから、必ずしもいつも小児がんのことを考えているわけではありません。

それでも、自分の人生を歩む中で、たまたま私たちの活動や小児がんのことを知って、「共感する」と感じてくださったならば、その共感のほんの一部を、協力や支援という形で分けていただければ、それで十分だと私は思っています。多くの人が「一握り」の支援をしてくだされば、それが積み重なって、私たちはとても元気が出るんです。

小さな支援の輪が大きな輪になっていく。その輪が広がっていくようにするのが、私たちの啓発活動であり、啓蒙活動ではないかと考えています。それぞれの人たちがそれぞれの思いで似たような活動を始めて、あちこちに輪が生まれていく。水面に雨粒が落ちると、輪がいくつも広がって、重なり合って大きくなっていきますよね。あれと同じように、いろいろな人がいろいろな思いで活動をして、その輪が重なり合いながら広がっていく。そういうものが、社会貢献活動ではないかなと、私は思っています。

記者:今後、小児がんや小児医療の治療は、未来に向けてどのように変わっていくとお考えでしょうか。

中川原先生:医師である私たちは、やはり何よりもまず「今、目の前にいる子どもたちを助けたい」という気持ちがすごく強いんですね。だから「治らない子どもをどうやって助けるか」「そのために何をしたらいいか」を常に考え続けている。

しかし、小児がんといっても本当にさまざまな種類があります。それぞれ、生物学的な特徴も違うし、がんの発生のメカニズムも違う。治療に対する反応もそれぞれ異なります。ですから、違いをよく考えながら、科学技術の進歩に合わせて、「この新しい技術をどう応用すれば新しい治療法や診断法を開発できるか」ということを考える必要があります。

少なくとも私自身の立場としては、常に新しいテクノロジーや新しい知識を追い求めています。その中から、自分たちに取り入れられるものを選び、世界中の仲間と組んで、「本当に子どもを治すことにつながる方法」を具体的に開発してきました。

私の場合、今やっていることの一つは、たまたま自分の学位論文のテーマが「活性酸素」だったこととつながっています。白血球からスーパーオキサイドという活性化された酸素が出ていることを見つけて、その研究をしていたのですが、そこには量子反応、つまり量子力学の世界の反応が関わっているんですね。それから年月がたち、佐賀に重粒子線がん治療センターができ、経営を任されたので、私は佐賀に戻りました。(現在は同センターの名誉理事長)

重粒子線治療*というのは、量子反応を使ってがんを治す、日本で開発された治療法です。そういう仕事をしていたことから、「日本量子医科学会」という新しい学会を仲間と一緒に立ち上げました。

*重粒子線治療について(SAGA HIMAT):炭素イオンを、加速器で光速の約70%まで加速し、がん病巣に狙いを絞って照射する放射線治療法です。

今、「量子」を使ったがん治療が、新しい技術としてどんどん応用され始めています。こうした治療法を、私は日本の中だけでなく、海外──特にアジアの国々にも広めたいと考えていて、そこに今、力を入れているところです。

世界的に広く行われているのは「陽子線治療」です。陽子、つまりプロトンを加速器で光速の約7割の速さまで加速し、それをがんに照射してがん細胞を死滅させる、という治療です。

さらに、日本では「炭素イオン」を使った重粒子線治療が開発されました。炭素は陽子6個と中性子6個が一つの塊になった、より重い粒子です。これを加速してがんに当てる装置を作り、人間のがん治療に応用したのが、日本の重粒子線治療です。これは千葉にある放射線医学総合研究所(放医研)で世界に先駆けて実用化され、日本は今、この分野で世界の最先端を走っています。

日本国内には現在、重粒子線治療施設がいくつかありますが、佐賀県鳥栖市にある重粒子線センターは、日本で4番目にできた施設です。私はそこで理事長を務めることになり、経営も含めて関わるようになりました。その過程で、「これはしっかり学問的な基盤も作らないといけない」と考え、学会を作って本格的に取り組むようになった、という流れです。

こうした量子ビームを用いた最新の放射線治療は、小児がんの治療にも少しずつ応用され始めています。ですから、私は自分の経歴の流れの中で自然とそこに行きつき、今も「この技術を日本だけでなく世界に広げたい」と夢を見ながら、少しずつ取り組んでいるところです。

記者:​ご自身の、これからの目標やビジョンを教えてください。

中川原先生:そうですね。もう「やらなければいけないこと」は、だいたい終わりに近づいてきたかなと感じている部分もあります。

ただ、その中でどうしても最後までやり遂げたいと思っているのが、赤ちゃんにできる「神経芽腫」というがんに関する研究です。生後1歳未満で発症すると、全身に転移していても自然に治ることがある。一方で、1歳を過ぎてから発症すると非常に悪性で、助からないことが多い。この不思議な病気が、私のがん研究の原点なんです。

長年、遺伝子やゲノムのレベルで研究を続けてきて、いろいろなことが分かってきました。千葉県がんセンター研究所にいた時期には、そのテーマに集中して取り組み、たくさんの新しい遺伝子──当時は機能の分からない遺伝子も含めて──を見つけました。その解析を、私の研究室にいた若い研究者たちが今も引き継いで続けてくれていますし、世界中の研究者も進めています。

ですから、世界中で得られている知見も含めて、神経芽腫の「自然寛解」と「難治性」の背景を、最後に一度きちんとまとめて、一つの体系として整理したいと考えています。それを論文という形で世に残さなければいけないな、と。

もちろん、これまでの仕事で高松宮妃癌研究基金の賞や仁科記念賞など、いろいろな賞をいただきましたが、それはあくまで途中経過に対していただいたものだと受け止めています。最後に、自分自身でまとめ上げて、新しい枠組みとして提示する。その作業が、自分の最後の仕事だと思っています。

それを残しておけば、10年、20年、50年、100年後に、誰かがそれを土台にして、さらなる飛躍をしてくれるかもしれない。もっとも、その前に倒れてしまうかもしれませんが(笑)。今のところは、そういう気持ちでいます。


取材後記: 若取材を通して強く感じたのは、中川原医師の原体験が大きな力となって活動を支え続けているということだった。そしてその力が今も生き続けていることが中川原医師の言葉から読み取れた。「生まれた国によって不平等をつくらない」という言葉が今も深く私の心に残っている。世界には今も病と向き合う子どもたちがいる現実を忘れず、今回の取材で得た“小さな輪”が、読者の方にも広がり、やがて大きな輪へとつながっていくことを願っている。

自己紹介: はじめまして。現在高校2年生です。政治や社会から文化歴史まで様々なことに興味があります!今は政治体制の研究をしています。

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